9.08.2009

広場について @TKY

RTM側で、再三テーマにしているパブリックという言葉にピンと来なかったが、新聞に理解を助けてくれる記事が載っていたので転載。

「西欧の街で人々が憩う「広場=プラザ」という概念が、日本の建築や都市計画に位置付けられていない」という話題。

政府・行政が、社会のコントロールを考えると、「広場」というものが都市の中で邪魔なのだろうか。公共という概念の違いに思いを馳せてしまう。ヨーロッパは、都市がコンパクトで、住まいと職場・遊び場が近接しているということにも一端があるのだろうと思う。

「2009年9月4日の日本経済新聞夕刊より」

1 件のコメント:

  1. とても興味深い記事をありがとう。毎年東京に戻るたびに切実に感じるのが、公共空間における自由と不完全性の欠如。慣れてしまえばそれまでなのかもしれないけども、滞在中つねに息苦しさを感じてしまう。記事にもあるように「広場」という概念はその漢字が意味するように、「広い場所」である。その語自体には特定の機能が付随していない。つまりどう使うかは自由であり、同時に広い場所であればどこでも「広場」となりうる。

    かつての表参道の歩行者天国のように週末だけ広場となりうるような場所は東京の中にもいくらでも存在する。2000人という竹の子族といわれた人々が好きな音楽で自由に踊り楽しんでいた。そんな自由が今どこにあるだろうか。ストリートダンス人口が増える中、彼らの踊る場所は減少する一方である。ストリートダンスというよりは路地裏ダンス状態。(なぜ公園では駄目なのか、という質問にはさらにいろいろ考えはあるのだが、ここでは避ける。)

    行政の支配や近隣の苦情、渋滞問題など「広場」の発生を妨げる理由はいくらでも存在する、が発生を見越した計画を行政がもっていないのも事実だろう。すべて事前にコントロールするという現在の支配体系は可能性を排除し、余白を埋め尽くす。気がつけば「公共」の意味は安全という名の檻となってしまう。そうではなく、あらゆる問題が起きた時の対処法としてのコントロールをいかに緻密に行うか、というのが大切なのではないだろうか。舞台裏の黒子のように、見えないところで公共舞台を支えるといったように。。。

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