久々にまた君の写真を見ることが出来ました。改めて見てみて、自分がなぜ君を尊敬しているのか、また思い出しました。ここしばらくの間君のクリエイティブな側面を直に感じることが少なかっただけに、とても新鮮でした。写真家としての才能とかは自分はよくわからないけども、少なくとも自分にとって衝撃的なのは、そこに表社会から消えつつある都市の姿、都市の隙間が正面から捉えられていること。そこには常に人が写り、背景が霞むものばかりだけど、写真が確実に伝えていることはそこに実在するパブリックスペースの存在である。路上は禁煙、ホームレスは滞在不可、深夜の散歩はストーカー、スケボーは禁止、トレンチコート姿は変質者、子供と話をしたらペドファイル、落書きは犯罪、木登りは木をいためるから禁止、子供の遊具は危険だから撤去、などなど、現代社会において本当に自由を感じられる公共の空間はもはや消滅の一途をたどる中、君の写真はとても貴重な都市の断面を捉えていると思うし、その状況を今から10年近く前から直視していた視点に脱帽。
ケイゴが写真を気に入ってくれているというのは初耳です。いいコメントをありがとう。元気がなくなったときにまたコメントを見に来ます。最近世の中がさわさわしています。何も起こっていないのに、何か起こりそうな感じ。予感だけがある。ノストラダムスを少しみんな信じていた2000年とか世紀末の雰囲気と同じような感じ。世紀末にいっぱいとっていた写真を思い出して公開しました。フィルムで撮ったのでデジタル化してあるのはほんの一部分で、これからデジタル化しながら順次公開して行こうと思っています。大学1年の夏から本格的に写真を始め1日フィルムを5本ぐらい消費していました。5かける36で180枚1日で撮っていたことになります。大学2年の夏休みは夕方の5時に起きて歌舞伎町にいてぐるぐる街の中をまわりストリートスナップを撮っていました。朝の5時まで。ぐるぐるといっても新宿全体は結構広くまだ新宿を題材にしている写真家はたくさんいました。(森山大道・アラキ・渡辺克己など)多くの写真家にとって魅力的だったのは2000年まででその後は新宿はずっと治安も悪くなり以前より写真を撮ることが命がけになりました。(その後都知事の規制強化でまた少し変わりました、面白くもなくなった)生前渡辺克己さんは「もういつ後ろから刺されてもおかしくない」といっていました。2000年頃は僕も盛んに写真を撮っていましたが、何回か殴られ、何回かレイプされかかりました。オカマに気に入られ何回もキスをされました。写真集のなかにもすごいきれいな女性がいたでしょう?あれはオカマです。トランス・セクシャリティ。自分のもって生まれたものから他のものへ飛び越えるときに必要なとても大きなエネルギー。そのエネルギーをとりたい、と思っていました。それは自分の心のなかではとても自然なことが多いのですが、からだは反発しホルモン注射でホルモンバランスを崩すことが多々あります。また性は社会性を帯びているので、性を飛び越えるということは即周りを巻き込んでしまうのです。友人のゲイはカミングアウトしたとたん彼の家から彼の持ち物がすべて消えました。オカマといって見くびってはいけなくて、そういったエネルギーと自分のからだを武器にするという気概から気持ちをのせることがとてもうまくて彼女らのキスはとてもセクシーでした。シャッターをきるのは多くは夜で暗かったけどフラッシュを焚くのがいやで(写真を撮るということの暴力的な部分を相手により感じさせてしまうから)35mmフィルムで絞り1.5シャッタースピード1/8秒とか1/4秒とかで撮っていました。絞りが小さいのでピントが合いづらく、ボケボケの写真ばかりです。「技術的にいい白黒写真は白から黒のグラデーションの段階がとても細かく、黒が締まっている」といわれたけれど、そこからも程遠い。写真は自分でフィルム現像し、引き伸ばしていましたが、アップしたのはフィルムをスキャナーで取り込んでいます。写真家は誰がすきですか?写真表現自体がモダニズムの申し子なのでそんなに歴史があるものでもありません。マン・レイ、ウィリアム・クライン、ヘルムート・ニュートン、ロバート・フランク、ナン・ゴールディンなどなど有名な写真家はたくさんいますが、僕が一番好きなのはダイアン・アーバスでした。彼女が初めて個展をしたとき彼女の写真は観衆からつばを吐きかけられまくったそうです。彼女の写真は多くの観衆の価値観の深い部分をゴットンと崩したのでした。彼女の写真はキモチワルカッタのです。キモチイイとかキモチワルイとかの感情は僕はとても大事にしています。人間の生物的な部分にとても近い感覚だから。疲れているときに甘いものを食べるとてもおいしく感じるし、酒を飲み過ぎるとキモチワルイです。多くの男性にとってゲイという人種はキモチワルイでしょう。そしてセックスはとても気持ちがいい。打撲や骨折をすると吐き気がするときがあるし、マッサージはとても気持ちがいい。屍体を見ると気絶する人がいる。早起きすると気持ちがいい。このようなキモチイイ感覚は生物的遺伝的にいいことをしたときのご褒美だし、キモチワルイ感覚は罰です。人間は動物なのでキモチイイとかキモチワルイとかの感覚を抱いているときはとても深い部分が反応しているといえます。ダイアン・アーバスの写真はそのような深い部分をノックしてくるのです。ファッションの写真家だったときもあって有名人を撮っていたりします。(カラヤン、イーストウッド、「マルチェッロ」)僕の写真は彼女の写真にとても影響を受けています。彼女の写真集を開いたら3ページぐらい繰った後にもう閉じたくなります。その写真のエネルギーに毒されるから。強度のある写真、建築。そのときはそんなことを考えていましたが、写真と建築はわりと別物。なんというか瞬発力と持久力というか。写真家や写真を使う作家はシャッターを切る前に勝負する人、シャッターのときに勝負する人、シャッターを切った後に勝負する人に分かれます。一番目は森村泰昌・やなぎみわなどが日本人では代表格です。本城直季ってどうやって撮ってるんだろう。絞りをすごく小さくしているんだろうか。
久々にまた君の写真を見ることが出来ました。
返信削除改めて見てみて、自分がなぜ君を尊敬しているのか、また思い出しました。ここしばらくの間君のクリエイティブな側面を直に感じることが少なかっただけに、とても新鮮でした。写真家としての才能とかは自分はよくわからないけども、少なくとも自分にとって衝撃的なのは、そこに表社会から消えつつある都市の姿、都市の隙間が正面から捉えられていること。そこには常に人が写り、背景が霞むものばかりだけど、写真が確実に伝えていることはそこに実在するパブリックスペースの存在である。路上は禁煙、ホームレスは滞在不可、深夜の散歩はストーカー、スケボーは禁止、トレンチコート姿は変質者、子供と話をしたらペドファイル、落書きは犯罪、木登りは木をいためるから禁止、子供の遊具は危険だから撤去、などなど、現代社会において本当に自由を感じられる公共の空間はもはや消滅の一途をたどる中、君の写真はとても貴重な都市の断面を捉えていると思うし、その状況を今から10年近く前から直視していた視点に脱帽。
ケイゴが写真を気に入ってくれているというのは初耳です。いいコメントをありがとう。元気がなくなったときにまたコメントを見に来ます。
返信削除最近世の中がさわさわしています。何も起こっていないのに、何か起こりそうな感じ。予感だけがある。ノストラダムスを少しみんな信じていた2000年とか世紀末の雰囲気と同じような感じ。世紀末にいっぱいとっていた写真を思い出して公開しました。フィルムで撮ったのでデジタル化してあるのはほんの一部分で、これからデジタル化しながら順次公開して行こうと思っています。
大学1年の夏から本格的に写真を始め1日フィルムを5本ぐらい消費していました。5かける36で180枚1日で撮っていたことになります。大学2年の夏休みは夕方の5時に起きて歌舞伎町にいてぐるぐる街の中をまわりストリートスナップを撮っていました。朝の5時まで。
ぐるぐるといっても新宿全体は結構広くまだ新宿を題材にしている写真家はたくさんいました。(森山大道・アラキ・渡辺克己など)多くの写真家にとって魅力的だったのは2000年まででその後は新宿はずっと治安も悪くなり以前より写真を撮ることが命がけになりました。(その後都知事の規制強化でまた少し変わりました、面白くもなくなった)生前渡辺克己さんは「もういつ後ろから刺されてもおかしくない」といっていました。
2000年頃は僕も盛んに写真を撮っていましたが、何回か殴られ、何回かレイプされかかりました。オカマに気に入られ何回もキスをされました。
写真集のなかにもすごいきれいな女性がいたでしょう?あれはオカマです。トランス・セクシャリティ。自分のもって生まれたものから他のものへ飛び越えるときに必要なとても大きなエネルギー。そのエネルギーをとりたい、と思っていました。
それは自分の心のなかではとても自然なことが多いのですが、からだは反発しホルモン注射でホルモンバランスを崩すことが多々あります。また性は社会性を帯びているので、性を飛び越えるということは即周りを巻き込んでしまうのです。友人のゲイはカミングアウトしたとたん彼の家から彼の持ち物がすべて消えました。オカマといって見くびってはいけなくて、そういったエネルギーと自分のからだを武器にするという気概から気持ちをのせることがとてもうまくて彼女らのキスはとてもセクシーでした。
シャッターをきるのは多くは夜で暗かったけどフラッシュを焚くのがいやで(写真を撮るということの暴力的な部分を相手により感じさせてしまうから)35mmフィルムで絞り1.5シャッタースピード1/8秒とか1/4秒とかで撮っていました。絞りが小さいのでピントが合いづらく、ボケボケの写真ばかりです。
「技術的にいい白黒写真は白から黒のグラデーションの段階がとても細かく、黒が締まっている」といわれたけれど、そこからも程遠い。
写真は自分でフィルム現像し、引き伸ばしていましたが、アップしたのはフィルムをスキャナーで取り込んでいます。
写真家は誰がすきですか?
写真表現自体がモダニズムの申し子なのでそんなに歴史があるものでもありません。
マン・レイ、ウィリアム・クライン、ヘルムート・ニュートン、ロバート・フランク、ナン・ゴールディンなどなど有名な写真家はたくさんいますが、僕が一番好きなのはダイアン・アーバスでした。彼女が初めて個展をしたとき彼女の写真は観衆からつばを吐きかけられまくったそうです。彼女の写真は多くの観衆の価値観の深い部分をゴットンと崩したのでした。彼女の写真はキモチワルカッタのです。
キモチイイとかキモチワルイとかの感情は僕はとても大事にしています。人間の生物的な部分にとても近い感覚だから。疲れているときに甘いものを食べるとてもおいしく感じるし、酒を飲み過ぎるとキモチワルイです。多くの男性にとってゲイという人種はキモチワルイでしょう。そしてセックスはとても気持ちがいい。打撲や骨折をすると吐き気がするときがあるし、マッサージはとても気持ちがいい。屍体を見ると気絶する人がいる。早起きすると気持ちがいい。このようなキモチイイ感覚は生物的遺伝的にいいことをしたときのご褒美だし、キモチワルイ感覚は罰です。
人間は動物なのでキモチイイとかキモチワルイとかの感覚を抱いているときはとても深い部分が反応しているといえます。
ダイアン・アーバスの写真はそのような深い部分をノックしてくるのです。ファッションの写真家だったときもあって有名人を撮っていたりします。(カラヤン、イーストウッド、「マルチェッロ」)
僕の写真は彼女の写真にとても影響を受けています。彼女の写真集を開いたら3ページぐらい繰った後にもう閉じたくなります。その写真のエネルギーに毒されるから。
強度のある写真、建築。
そのときはそんなことを考えていましたが、写真と建築はわりと別物。なんというか瞬発力と持久力というか。
写真家や写真を使う作家はシャッターを切る前に勝負する人、シャッターのときに勝負する人、シャッターを切った後に勝負する人に分かれます。一番目は森村泰昌・やなぎみわなどが日本人では代表格です。
本城直季ってどうやって撮ってるんだろう。絞りをすごく小さくしているんだろうか。